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■『 醜い韓国人 』(朴 泰赫 著) 光文社 1993年 p17〜29

・日本統治時代 −− 誰が近代化を教えたか

戦後、韓国が独立を回復した後には、日本統治時代は悪いことばかりであって
良いことはひとつも無かったように言われているが、私が育った村だけとって
も、日本は多くの開明的な改革をもたらしてくれた。
そのようなことが全く無かったという者は、李朝末期の韓国社会の状況を無知
なために知らないか、故意に目をつむっているのだ。
村には小学校を作った。どこの村にも小学校があった。学校では授業が日本語
を使って行なわれたが、私の小学校時代は韓国語のハングルの読み書きも教え
られた。その後、ハングルの教科書が無くなって教科書はすべて日本語になっ
た。教室にはオルガンがあった。音楽の時間には日本の唱歌が教えられた。都
市部の小学校にはピアノもあった。
小学校の次には公会堂が建てられた。公会堂では、昼間村民が集められて日本
の宣伝や農村振興のための講習会が行なわれた。夜は夜学(ヤハク)と呼ばれて
いたが、字の読めない村民には無料でハングルと日本語が教えられていた。李
朝時代には無かったことだった。
( 中略 )
李朝末期までは、常人は教育を全く受けることができなかった。しかし、日本
統治時代に入ってから、私の小・中学校時代には、特に都市部では両班・中人
・常人・奴婢の階級差が平等化され、常人階級の子どもたちの学歴が高まるよ
うになった。
( 中略 )
日本人たちは、村の振興に力を注いだ。
私が小学校に入学すると、しばらくして電力会社が村まで電気をひいた。両班
・常人の区別なしに、ほとんどの家には電灯がともるようになった。
それまでは照明といえば、ゴマ油や石油を用いていた。両班の金持ちの屋敷で
はロウソクや石油ランプを使っていたが、貧しい常人は「トゥルケキルム」と
呼ばれる安いエゴマ油や、ツゥクエ(石油)に芯を入れて火をともした。なかに
は山に入って松脂(ソルギルム)を採集して照明に利用した。電気が村までやっ
てきたことによって、突然のように夜のとばりがおりてからの村の生活が活気
づいた。
日本統治下の韓国には2つの電力会社があった。日本は電化に努めたので、私
たちの村に電気がともるようになった。もっとも、戦争が激しくなると電化計
画が中断されたので、戦争が終わるまで農村の一部と特に僻地の農村では、電
灯がともらなかった所も少なくなかった。
日本人は農村振興運動を進めた。日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に
堤防も無かったし水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために
河川地域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から農地や
耕作可能な土地を守ることができるようになって、新しい農地が造られ、多く
のところで稲作が可能になった。この結果、日本人地主も増えた。
また畜産が奨励され、日本人が作った金融組合が希望する農家ごとに、子牛一
頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長
して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと成長した親牛は無償で農民のもの
となるという制度だった。
日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し植林を進めるために、総督府は
山監(サンカン)という監督府を村に置いた。また、村人が植林した山に入るこ
とを禁じた。
私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、緑
化について情熱にあふれていた。真面目で献身的な青年が多かった。日本統治
時代には、そのせいでハゲ山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教
導師は農村振興運動の一環として、農村の改革と生活改善のために村から村へ
と巡回していた。
( 中略 )
私の小学校時代には、日本統治がもう25年以上になっていたので、村の人々
の大半が日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は通訳なしに日本
語で理解することができた。そこで講話は通訳無しに日本語で行われた。
人々は話に耳を傾けながらしばしば韓国語で「ケンチャンハンサラム」(立派
な人だな)とつぶやいたり「ヨクシ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を
打った。
また、「力を合わせて朝鮮を蘇生させましょう! 今日の朝鮮では山川草木が空
からくれた天の恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。あ
あ、もったいない、もったいない。そこで陸はいつも旱魃に悩まされています。
木がもっと山に生い繁れば、天の恵みの雨の40パーセントを飲み水や水田の
水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に木を植え
ようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです。」といった
話もあった。
日韓併合以前の韓国の山々といえば、乱伐したり燃料にしたりしたためにほと
んどがハゲ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に
覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができ
た。しかし、独立後にまた勝手気ままに木を切るようになったので、ハゲ山に
戻ってしまった。
日本人地主は韓国の小作人の間できわめて評判が良かった。日本人がやって来
てから改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら品種改良
や進んだ農業技術を導入したので収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進め
たので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。
それに日本人地主は昔の両班たちよりはるかに寛容だった。両班のように小作
人を理不尽に苛めるようなことが無かったし、不作の時には小作料を安くして
くれた。日本人地主のほうが物わかりがよかった。だから日本人地主は人気が
あった。みんなは韓国人の地主の小作人になるよりは、日本人地主の小作人に
なりたがったのは当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、
羨望の目で見られていた。
日本人が所有していた農地は独立後に「敵産」(チョクサン)としてすべて没収
された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎を作ったことは、否定
できない。
私たちの村は李朝時代にはいつも水害に悩まされていた。そこで農作が思うよ
うにできなかった水田地域を「ペペーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでい
た。しかし1911年(明治44年)、川に堤防が築かれたために水害から逃れること
ができた。それからは「ペペーミ」という悪名のあった水田が1等級の水田に
変わって、多収穫地として生まれ変わった。この話は私の父親がしてくれた話
である。
母はいつも韓服を着ていた。しばしば李朝時代の頃の生活がいかに苦しいもの
だったのかを話してくれた。村には5つの農業用水池があった。日本人が京釜
線を敷くのにあたって、池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてく
れたのも母だった。
日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことができるよう
になったのだった。私の村では、独立運動系の人々を除けばほとんどの村民が
日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだ
で「イルボンサラムン・キョンウカバッダ」(日本人は事理に明るい[すべて正
しい])という言葉がよく交わされた。
それでも村の人々が外国人である日本人に対して屈折した感情を抱いていたこ
とも事実だった。何といっても韓国は外国の支配下にあったのだ。日本人の元
で働いたり日本人と結ぶことによって成功している者は「アブチェビ」(ゴマ
スリ)と呼ばれた。これには多分に嫉妬心理も手伝っていただろう。
戦後、韓国が独立を回復してから、民族主義教育が行われるようになった。
韓国では日本人を指して「チョッパリ」(日本人の蔑称)とか「オランケ」(侵
略者)という言葉が使われるようになったが、日本統治時代には私の村の人々
だけではなく、韓国人の間で広く日常会話のなかで日本人を話題にする時には、
ただ「日本人」(イルボンサラム)と呼んだ。日本語がよくできる韓国人ほど日
本人の良さを理解していたと思う。
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